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恋猫 [季語を探す]




 現在、散歩を日課にすべく努めている最中。ただ歩くだけなんだけど、なあ。動くことがとことん嫌いなタチなのでどれだけ続くかは分からない。
 まだ暑くないのでさくさく歩けるが、こうして弱気になるので愛機オリンパスちゃん同伴である。

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 春の公園は楽しい。花が咲いたり、野鳥の顔触れが変わったりしている。野鳥を探すのに動きだけでなく啼き声を手掛かりにしているのだが、いつもいるメンバー(留鳥)のさえずりが変わっている。恋の季節なのだなあ。

 鳥だけではない。春と言えば猫も恋のシーズンだ。大歳時記(講談社・座右版)によると「猫は主として寒中から早春へかけて、さかんに妻恋いを始める。一匹の牝に数匹の牡が鳴き寄り、赤ん坊の泣くような声を出し、いく日も家を留守にして浮かれ歩く」とある。王朝和歌では季題として扱わなかったそうな。そうかもしれないなあ。様式や駆け引きなど複雑な恋愛テクを標準装備した王朝和歌の歌人からすると牡猫くんたちのそれはあまりにダイレクトで開けっ広げ、身も蓋もない迫りっぷりに見えたのだろう。大歳時記には「だが、俳諧の滑稽、諧謔の世界では、見逃すことの出来ないユーモラスな美を含んでいる。芭蕉以下正風の作家たちに好んで読まれた季題であった」とも書かれている。俳句が音の数を制限する代わりに守備範囲を広げ、おもしろみに広がりだけでなく深みももたらした例のひとつであるかもしれない。

 散歩の最中、猫に出会った。
 立ち止まって眺めていると、1匹、また1匹と増えて3匹が集まってきた。どうも三毛猫目当てであるらしい。「にゃああおおお」とこの時季特有の鳴き声でアピールするさまが微笑ましい。しばらく眺めて堪能したので立ち去ろうとすると、三角関係の中心にいる三毛猫が私の足元をかすめるようにとことこと走り寄り、
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 進路を阻んだ、ように見えた。
 ミケさん、あたしに見物しろってか。いやいや私もね、ついつい立ち止まっちゃったりなんかしちゃったけど、本来ウォーキングのためにここに来たんであって、先に進みたいなー、なんて…分かりましたよう。足もとでくるくるごろんごろんされちゃあ、仕方ない。
 見物を決め込んだ私のそばで、大胆に見ず知らずの人間に近寄り愛嬌をふりまくミケさん(仮名)を中心に三角関係が進行中である。
 こちらは黒ぶちくん(仮名)。のどに自信ありなのか、ちょっと離れたところから声でアピール。
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 こちらは小虎くん(仮名)。
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 まだあどけなさの残る彼、初めての恋なのだろうか、愛嬌勝負であるらしい。ミケ姐さんのまねをして私にも愛想を振りまく。
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 たいそう愛嬌があって結構だが、鳥の糞を敷いてるぞ。おばちゃんに愛想ふりまいてどうする。キミのターゲットはミケ姐さんだろうが。
 ミケ姐さんは静かな表情でオトコどもの恋の鞘当てを眺め、自分からはちょっかいを出さない。時折人間をからかうのみ。
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 圧倒的優位に立つ、恋愛巧者らしい余裕の表情だ。恋する姐さんが寝そべれば、ボクだって、というわけで一定の距離を保ったまま小虎くんはおんなじことをしようとする。
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 ライバルがターゲットと一緒になってニンゲンで遊んでいるさまがうらやましくなったのか、黒ぶちくんも少し離れたところでくねくねごろごろ。
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 黒ぶちくん、作戦変更なのか?

 その後ふてぶてしささえ漂う大きな茶虎猫が登場し、三角関係は四角関係に発展。小虎くんはビビりつつ威嚇したりしていた。
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 傷の治癒痕なのだろうか。若くともいっぱしの戦士なのだなあ。
 それにしても。春なんだねえ。


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寒雀 [季語を探す]




 寒い。中学生の愚息は子どもらしく雪の降る日を心待ちにしているが、寒がりでもあるのでこれ以上冷え込むのは困るらしい。アンビバレントな心持ちであるわけだ。「チーム・バチスタ」シリーズの氷姫に論理破綻を指摘されちゃうぞ(愚息は未読だがロジカルで切れ者でありながらドジっ子で且つ可愛いお姉さんとくれば間違いなくヤツの好みであると母は見ている)。
 温暖な東京といえどもいよいよ冷え込みが厳しくなってきた。純正北国育ちの家人によると冬は体の余計な力を抜き自然体を保つことによって寒さをしのぐべきであるらしい。無理だ。愚息だけでなく私も縮こまってしまう。
 冬になると家じゅうで最もぬくい場所(稼働中のホットカーペット)で縮こまり動かなくなる拙宅の女子供(おもに私だ)とはちがい、こちらはアクティブでキュートな冬ならではの姿である。

寒雀
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 ほんとは雪が降るまで待ちたかった。雪との組み合わせでより雀のふくふくした姿が愛らしく絵になるとぼんやり頭の私だって分かってはいる。しかし、いくら今写真撮影に夢中であろうとも、雪の中で雀のラブリーなショットを狙いシャッターを切り続けられるだろうか。おおお、想像しただけで寒い。フライング気味であるがせっかく撮ったので今出してしまうことにした。

 寒雀はなんと冬の中でも驚いたことに晩冬の季語であるらしい。この時季を晩冬とはとても言えないが、まあいいや、紹介してしまおう。冬になると堕落度が臨界点を軽々と突破するのだ。私の場合。
 閑話休題。寒雀は凍雀(こごえすずめ)、ふくら雀ともいう。大歳時記(講談社座右版)によると

厳寒の候になると、食物が乏しくなるので、雀はますます軒先近くやってくる。毛並みもまるまるとふくらんできて、焼鳥にすると美味である。ふくら雀は寒中に全身の羽毛を膨らませている雀で、紋所や模様になっている。寒雀は焼鳥としての食味と、眼の民間薬として、その血を目にすりこめば利くとされたことから言われた言葉だろうが、今日俳人たちはそのふくらんだ、可憐な姿を句に詠むことが多い。


 とある。なるほど。小学生の時に学校で鑑賞した映画が少年と雀のふれあい物語で、大人が「雀は焼くとうまいんだ」とかなんとかいい、主人公の少年がこの世の終わりのような顔をして凍りつく焼鳥屋のシーンがあり、これがかなり印象に残った。そりゃまあ、周りの級友たちとともに映画に引き込まれ、主人公役の少年が相当に演技派だったもので「なんと残酷なことをいうおじさんだ!」と息を呑んだがしかし、そんなにうまいものなら一度食してみたいものだという感懐がちらりと幼いころから食いしん坊であった私の脳裏をよぎったりしたものだ。ちなみに大歳時記(講談社座右版)の解説は最後、

さすがに冬の風景句として多くは詠まれ、食味としての寒雀はほとんど読まれていない。


 と締めくくられている。この解説を読んでますます「一度は食してみたいものだ」との感を強くしたのは私だけだろうか。
 江戸時代は身近すぎて絵にならなかったのだろうか、意外なことに俳題としてあまり取り上げられなかったようである。しかしそのキュートな姿は「ふくら雀」と称して折り紙などの模様として図案化されたり、帯の結び方やら髪の結い方の名前になったりしたようだ。季語として定着したのが明治以降というのだから案外新しいお題である。
 作例には数少ない江戸期のものもあった。

脇へ行くな鬼が見るぞよ寒雀   一茶

 難しい言葉、概念を避け、平易な言葉を選んで素朴に練り上げられ、あふれるこの詩情。一茶の真骨頂が発揮された句である。うむうむ、と深くうなずきながらなんとなく気がついた。この鬼っていろんな解釈ができちゃうんじゃないか。公園のベンチで愛機オリンパスちゃんを構える私も雀さんたちからすれば鬼だったりして。だって、ねえ。ちらっと「うまそうなやつらだ」なんて思わないでもないもの。ちらっとだけ、だけどね。

 そんなに無警戒に近寄ると撮っちゃうぞよ。
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 たいそう無邪気に首なんぞかしげているが、そこは野生の生き物。人が通れば蜘蛛の子を散らすようにぱあっと飛び去る。そしてまた集まってくる。ハトが来ようとカラスが来ようと私のような人間がペットボトル飲料を手に居座ろうともお構いなしに集まるさまを見ていてふと思った。はて、このあたりには雀さんたちが集合するような何かがあるのだろうか。
 雀さんたちは落ち葉などをはね散らかして一心に何かをついばんでいる。見上げるとこの日私が休憩をとったこのベンチのそばには2本のサルスベリが植えてあった。
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 夏に赤や白、ピンクの可憐な花を咲かせるサルスベリに実がなっている。地面に落ちたこの実をついばんでいるようだ。花は見たことがあっても実はちゃんと見たことがない。そこで雀さんたちのように枯れ葉の間を探り、拾い上げてみた。

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 なるほどー、と一度納得しかけたが、さらにもう一歩踏み込んで、実をばらしてみた。

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 乾燥しているので指でつまむとすぐにはじけた。中は放射状に仕切られた小部屋が並んでおり、薄くて平たいものがたくさん詰まっている。これが種子なのだろう。振ってみると、平たい種子がばらばらと落ちてくる。ナッツ好きとしてはちと味見してみたい気持ちにもなったが、そこはヒトとして踏みとどまった。ふう、危うかった。どんだけ食いしん坊なんだ、私。
 と、こんな具合で人としてのボーダーラインを割りそうな危うい場面はあったものの、好奇心がある程度満たされて満足したのであった。


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小春日和 [季語を探す]




 ここしばらく暖かい日が続いた。冬至の昨日もしかり。こちらは昨日、公園にて撮影。
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 日の光は冬至らしくどこか力ないが、日向はぽかぽか。地面はけやきの落ち葉が積もってふかふかであたたかな感じがする。。小春日和だ。

 小春日和は「春」の字が含まれるが初冬の季語である。小春、小春日、小春凪、小春空、小六月ともいう。座右の書、講談社大歳時記(座右版)に

陰暦十月の異称であるが、そのころは雨風も少なく暖かい日和(ひより)がつづくので、小春日・小春日和などと言い、また小六月(ころくがつ)とも言って称美する。『徒然草』に「十月は小春の天気」(一五五段)とあるから、中世から使われだしていた。春に対して、小春、すなわち小さい春というのは、初冬のころ春がまた甦ったような温暖な日がつづくので、こんな可憐な名がつけられた。


 とある。現代の暦だと感覚としてはもう少し前、11月下旬あたりなのだろうが、ここしばらくのコートもいらないような暖かさ、小春そのものだ。今回の小春日和、厳しい冬の本格的な到来を前にした小休止のようなお天気だった。冷え込みにかちこちに凝り固まった体が心地よく緩む。ことばの響きといい、意味といい、のどかな感じがして好ましい。
 作例として大歳時記に載る句もほっこりのんびり、落ち着いた印象のものが多いように思われる。たくさんの作例の中で、こんな句に心惹かれた。

猫の眼に海の色ある小春かな   久保より江

 俳人と猫が寄り添い、お互いをじっと見つめあう静かな午後、猫の青い瞳がまるで穏やかな海を思わせる。そんなのどかな場面を想起させる。
 いや、もしかしたら。海辺、穏やかな波を眺めているのかもしれない。隣にうずくまる猫が海を眺め、そして俳人は猫の瞳に映る波を見ているのかもしれない。視線は交わらなくとも、俳人と猫の間の空気はあたたかい。
 どちらも悪くない光景だ。いつかそんなシーンを撮ってみたいものだ。

 まあ、昨日は鳥だけでなく、広い公園で一匹だけ見つけた猫にも逃げられちゃってたりする。うーむ。私の熱意が小動物諸君をおびえさせるのだろうか。写真ビギナーだから、とかそういう問題ではなく私には空回りする傾向があるのだ。自覚はあるのだが若いころから直せないでいる。どうもいかんなあ。

 小春日和とは関係ないが、この季節にしては珍しいものを見つけた。
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 夏の忘れものである。抜け殻に日の光が透けてとても美しかった。今度冬将軍がやってきたら落ちてしまうかもしれない。


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紅葉 [季語を探す]




 もみじといえば、晩秋を代表する季語だ。冬にさしかかる間際の、もの憂げで色彩感に乏しくなりつつある景観を一気に紅や黄で染め上げるその華やかさで愛されつづけてきた。

このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに   菅原道真(『古今集』巻九)

滝も阿修羅紅葉も阿修羅みちのくは   秋子

すさまじき真闇となりぬ紅葉山   鷲谷七菜子

 いにしえの手向山で菅原道真が仰いだ神々しいまでの紅葉も、絢爛豪華な錦と見立てればかえって業の深さ、まがまがしささえ垣間見えるほどの壮絶な紅葉も、現代の、しかも住宅地で眺めることはかなわない。それならばそれ、住宅地の公園、小ぢんまりとしていても周囲の建物とは一線を画すこんもりとした鎮守の森、密集した家々、それぞれの丹精がうかがえる木々を借景としてありがたく眺めるというのもひとつの楽しみ方であろう。冷え込みが厳しくなった週末、いよいよシーズンのフィナーレを迎え、それにふさわしく東京では空が高々と晴れあがった。

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 朝遅めの時分、家族全員でぶらぶらと連れ立ち、まず近所の公園へ向かった。
 近隣では広めの公園とはいえ、名のある風流な場所ではなく、スポーツに散歩に子どもの遊び場にと親しまれるところであるが、秋はここにもひとしく訪れる。なじみある公園の華やかな変貌ぶりに驚きながら家族それぞれにばっしゃばっしゃ写真を撮っていると、
「先週がピークだったんだけどねえ」
 と忙しげに掃除をする管理人さんから声をかけられた。掃いても掃いても散る落ち葉に辟易と思いきや、「どうだい、きれいだろう」と胸を張っておいでのようにも見受けられる。気軽に声をかけてまわる彼の目配りと丹精のおかげでこの公園は荒むことなく、年間を通じて人の集う穏やかな景観を保っているのだと聞く。

 まさに錦とたとえるにふさわしい。
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 呼ばれて愚息のもとへ向かうと、指差すほうに紅葉にはまだ至らない、もみいづる途中の木があった。
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 他の木の陰にあって紅葉が遅れているのか。しかし、だんだらの木漏れ日を浴びて紅葉のグラデーションをかたちづくるさまが、愚息のいうとおり実に美しい。

 紅葉はかえでのみにあらず。
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 大歳時記(講談社・座右版)、晩秋の項に「晴れた日、あかあかと陽に照り映えた紅葉」と載っている「照葉(てりは)」とはこういうさまであろうか。

 蔦の葉もまた、ひときわあかく照り映えている。
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 燃える炎のような激しさで古木をかき抱いているようにも見える。

 これまでは折々の景色をひとつひとつ、「ほら、きれいだよ」と指し示してきたが、今は愚息に「気づいてた? これもきれいだね」と教わるようになった。愚息の掬いあげるものはすべて美しくいとしい。自分とは異なる角度、色彩で美を見出すようになったことがどれほどうれしく、そしてだんだんと結びつきが緩みほどけていくことがなんとさびしいことか。ただひたすら子を育て見つめ続けてきた年月が秋を迎え暮れていく。


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銀杏黄葉 [季語を探す]




 新しい相棒とともにせっせと写真を撮りに繰り出す。もう12月、温暖な東京であってもさすがに秋の景色は残り少ない。逸るような気持ちでカメラを構える。

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 拙宅周辺は住宅密集地だが、最寄り駅に近づくと商店やオフィスが多くなる。こうした賑やかな一角にあっても神域であれば人影まばらかと思いきや、営業途中と思しき勤め人や買い物客、散歩中の老人などが入れ替わり立ち替わり参拝に訪れる。私もまねて参拝。些少な賽銭にありったけの願いを託す。神もお困りになるか、と苦笑しつつ振り向くと、順番を待つ人と目があった。神のみならず、この方も困らせてしまったようだ。

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 イチョウの黄葉は都会にあっても気軽に楽しめる。銀杏黄葉(いちょうもみじ)といい、晩秋の季語だ。足もとに積もる黄色い葉の軽い感じだけでなく、乾燥してひび割れた白っぽい幹の表面もあいまって、冬の入り口の乾いた空気とにごりの少ない陽光を意識させる。

 講談社の大歳時記(座右版)に載っている作例も、晩秋の他の季語にはどこかさびしさの漂うものが多い中で、明るさを感じさせる作風のものがそろっている。

ごみ箱のどれにも銀杏黄葉溢る   右城暮石

 この句を見て、境内の片隅で三つ四つ、肩を寄せ合うように置いてあったイチョウの葉で満杯のごみ袋も撮影すればよかったなあ、と思った。俳人は偉大だ。ごみも芸術に高めてしまう。掃いても集めてもなお盛大に散り続ける公孫樹の落葉には「ああ、なるほど」とだれもが納得する親しみやすさがある。それに、その黄色く愛らしい形の葉からしてごみ箱で山盛りになっていてもあまりばっちい感じがしない。
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 撮影の合間、ちょっと休憩しようと思ったらば、境内のベンチには先客が。
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 晩秋は一年の終わりが近づきつつあることを意識しはじめるころだ。舞い散る華やかさの中にやはり一抹のさびしさが忍び込む。
 大きな木を間近で眺めると思いだすうたがある。


ハルモニオデオン

ハルモニオデオン

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • 発売日: 2006/12/13
  • メディア: CD



 私はそこそこにねちっこい記憶力の持ち主なのであるが、このCDをどうして買うことになったのかさっぱり覚えていない。クリスマスカラーの装丁で大人気だった『ノルウェイの森』を友人たちと回し読みした学生当時、CDは生活費を圧迫する贅沢品であった。円高が進む中、廉価になりつつあった輸入物のCDでさえ吟味に吟味を重ね、それでも10回のうち9.5回はあきらめていたほどであるのに、中古ショップの値札もない国内盤を購入するのに躊躇がなかったとは思えない。ショップの片隅で「ほんとにほしいのか、ほんとに必要なのか」と牛が食べ物を反芻するようにいじいじと考え込んだはずなのだ。
 でも、何度も何度も繰り返し聴いたことはよく覚えている。きっとためらいを吹き飛ばすような、どうしてほしくなったのかがどうでもよくなるような、当時の私の心をわしづかみにする音だったのだろう。

 軽々と伸びる、澄んだ歌声だ。確実に大人の、声変わりを済ませた女性の声なのにどこかボーイソプラノのようなあどけなさが感じられる。時にかすかに呼気が混ざることがある。しかし、それが声の伸びと純度を損なわない。
 そんな清らかな声に耳を澄ませていると、不思議な気持ちになる。ああ、そういえば若いころもやはり不思議な気持ちになったものだ。何かを捕まえておかなければならないような、しかしもう手の届かないところに来てしまっているような、もどかしい気持ちだ。

 このアルバムの中に「僕の森」という歌がある。ビルの谷間に一本だけ生える木の幹に頬を寄せる少年が、その木の生涯に思いを馳せる様子がうたわれている。歌詞からうかがえるのは霧降る夕暮れの景色だが、アルバム全体を包む雰囲気と遊佐未森の澄んだ歌声から私は晩秋のさびしさを連想する。

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 イチョウの幹にそっとてのひらをあててみた。ゆっくりと脈打つそれが幹からくるものなのか、私自身の心臓の鼓動なのか、分からない。古木の幹は乾いてひび割れ、ほのかに温かく感じられた。



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紅葉かつ散る [季語を探す]




 まだ中学生だった25年前、母が冗談なんだか本気なんだか、「嫁入り道具にしましょう」と買い求めてくれたのが講談社の大歳時記座右版である。折にふれて繰り返し紐解いてもとうとう俳句をたしなむようにはならなかったが、図画写真がふんだんに掲載されたこの歳時記は私の宝物になった。何年たっても、開けばそこには私の知らない新鮮な切り口があり、磨かれた言葉によって切り取られた景色に親しむことができる。

 この大歳時記が今年また新しく出版されたようだ。

カラー版 新日本大歳時記 愛蔵版

カラー版 新日本大歳時記 愛蔵版

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/10/31
  • メディア: 大型本


 一生ものと呼ぶにふさわしい。この分厚く重いがしかし充実した本が子どもの手に渡るといいなあと思いながら書店に平積みされている様子を眺めた。でも、愚息には申し訳ないが私のお下がりで我慢してもらおう。古い座右版もまたすばらしい。

 晩秋の名残りを求めて写真を撮りに行った後、歳時記を見てみると、「紅葉かつ散る」という季題が目に留まった。
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 もみじは俳句に限らず、いにしえより愛されてきた秋の季題の代表格だ。さまざまなジャンルで多くの人が手を替え品を替え愛でつづけただけに、紅葉をめぐる季題はバリエーションが豊富だ。「紅葉かつ散る」は色葉散る、色ながら散る、木の葉かつ散るともいう。大歳時記に載っている飯田龍太の解説文をそのまま転記しよう。


 かつ散るの「かつ」は、二つの状態が並行して同時に存在することをあらわす語。一方では、とか、同時に、の意。古歌にしばしば用いられている用語で、それを季語として俳諧に転用したもの。言葉としてすでに出来上り過ぎているきらいもあって、俳句の実作には少々厄介なところがあろうか。



 「実作には少々厄介」というあたり、俳人ならではの感懐だろう。五七五の中でこれだけ字数を占めると確かにてこずりそうだ。その扱いにくさを示すように、掲載された俳句の作例は少ない。

かつ散りて御簾(みす)に掃かるる栬(もみじ)かな   其角

 んんー。この「もみじ」、表示されるかなあ。木へんに色で「もみじ」と読む。
 この句は一瞬を切り取った写真というよりむしろ短い動画を見るようだ。「かつ散りて」だけでなく、「御簾に掃かるる」も動きを感じさせる言葉で、風が吹いたことが分かる。御簾に掃かれて動くもみじが色を添えて何ともなまめかしい。この御簾をはためかせる風がどんな風なのかを想像するのもまた楽しい。初秋のそよ風の軽い動きなのか、それとも晩秋の身にしみ入るようなよそよそしさのある風なのか。
 前者であれば光景はますます艶めく。空は高く、雲ひとつない。ふわりとそよぐ風に秋の深まりを感じる。造作は小さくとも手入れの行きとどいた瀟洒な家の濡れ縁に一葉、もみじがかすかに動く。女あるじもさぞかし美しく風流であろうよ。色好みの血がざわめくというものだ。
 翻って後者。秋もいよいよ暮れてきてただでさえ肌寒いのに、一陣の風が冷えた空気をかきまわす。ふと目をやると、御簾がばさりとはためいて、錦のごとく積もるもみじがわさりと波うつ。どことなくすすけた軒先。そういえばここはかつて名を馳せた美女の住まいであったよ。お高く留まったひとであったがそんなところが却って男どもを熱くしてたっけ。今はどうしているのだか。
 やわらかなそよ風と点を打つようなもみじ一葉という彩度の高い組み合わせも悪くない。しかし、あざやかに見せていながら、びょうと吹く色なき風に寄せては返すもみじ積もる打ち捨てられた荒れた光景に若いころの夢が砕けてがっかり、という諧謔風味も捨てがたい。
 宝井其角といえば蕉門十哲のひとり。師匠は滑稽な色合いの濃かった俳諧をおしゃれなミニマム芸術に高めた人であるが、其角はその芸術性の高さを重んじてはいたものの、師匠とは異なるおしゃれ感覚の持ち主だったのだろう、博覧強記で難解なところをちらりと見せつつ、俳諧旧来の気軽さを残した作風で人気を集めたらしい。
 そんな其角、はて、どんな風をこの句を詠みこんだのだろうか。垣根越しの其角の一瞥を(無理やり色っぽい方向へと)いろいろと想像してしまう。
 
 ところでこの「紅葉かつ散る」という季語、俳句の実作のみならず、撮影するのも難しい。はーて、どうやって撮ったものか。

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 ぱちりぱちりと撮りつつ、楓の葉が散るのをしばらく待ってみた。そう都合よく落ちてくれない。指先でそっとつついてみるが、なかなかどうしてきっちりついていてまだ散る気配もないのだ。
 楓がダメならば、と考え込むことしばし。「紅葉」はもみじ、もみじといいうのは楓とは限らない。楓と限定しなければ…と数段階の拡大解釈を経て、「じゃあ、イチョウでもいいじゃあないか」と開き直ることにした。こちらははらはらと景気よく降るように散っている。そして足を肩幅程度に開いて踏んばり、脇を締めて息を吐きながら連写、連写! …ああ、なぜ私はこんなにとろいのかしら。せっかく開き直ったってのに。

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 現段階で私が撮れる「もみじかつ散る」はこれが限界だ。うーむ。精進せねば。


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釣瓶落し [季語を探す]




 昨日、家人が勤め先から
「とってもいい天気だよ」
 と電話をよこした。家族が出払った休日の午後、ひとりどっぷりと無聊に身を浸しているのを看破されたらしい。早めに帰宅できそうだというので待ち合わせて散歩することになった。

 近頃家人とともによく歩くようになった遊歩道を、となりまちに向かってゆるゆると歩いた。桜の葉が紅葉している。

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 秋の日は釣瓶落しとはよく言ったものだ。冬至までひとつきもないこの時季、特にその感を強くする。日が傾いたと思うと、つるりつるり、あっというまに暮れていく。 
 釣瓶落しは秋の季語。秋の落日ともいう。大歳時記座右版(講談社)によると、文芸評論家・山本健吉が「釣瓶落し」だけで十分季題として成り立つだろう、と言ったところ、たちまち俳人の賛同を得て定着してしまったのだとか。まだ新しい季題なのである。有名どころとして

釣瓶落としといへど光芒しづかなり   水原秋櫻子

 が挙げられるか。
 住宅過密地域の拙宅周辺では落日も建物の向こうに隠れてしまい、秋櫻子の句のような静寂と時の流れを意識させる雄大な景色は望むべくもない。

 立ち寄ったおいなりさまで夕空を望む。
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 あっというまに境内が宵闇に満たされていく。沈むような色合いの中、鮮やかな朱が、眺めることのかなわなかった落日を思わせる。

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 子どもの名を呼ぶ親の声、夕餉の支度のにおい、家路を急ぐ人々の足音。街中の釣瓶落しは光の色合いだけでなく、おびただしく重なる淡く優しい気配で作られている。多くの人の息遣いに満ちた空間で区切られた夕景も悪くないものだ。


ごはんができたよ

ごはんができたよ

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ミディ
  • 発売日: 1993/09/21
  • メディア: CD




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蔦紅葉 [季語を探す]




 東京でも秋が深まってきた。

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 近所の、今は住む人もなくなった家に這う蔦も紅く染まっている。
 蔦紅葉だ。蔦かずらともいう。秋の季語。25年来愛用している講談社の『歳時記座右版』に、


山野の木や崖にからんだり、石垣や住宅の塀壁に這いまつわった青蔦も、晩秋の一霜ごとに、その掌状の葉を真紅に染めて紅葉する。蔦紅葉(つたもみじ)と言って、燃えるようなその紅葉は趣深い。


 とある。

大木の枯るゝに逢へり蔦蘿(つたかづら)   村上鬼城

 紅葉はあれだけ鮮やかに華やかに色づくというのに、蔦紅葉は特に見る者を物憂くさびしく感じさせる。季節の移ろいをはっきりと目にすることでこれまで出会ったさまざまな変わりゆく姿に心を重ねてしまうからか。人からすると悠久にひとしい時を過ごした大木の末期に寄り添うのが蔦かずらというのがまた、華やかな裾模様となっているだろうと想像できるだけに寂寞とした趣を深くする。
 写真の家もしかり。夏の蔦が青々と盛んに茂るさまよりも、紅く色づいた今のほうがよりいっそうこの家の荒れようを際立たせている。固く閉ざされた扉、人の気配の絶えて久しい窓、色褪せた壁。ここにどんな家族が住まっていたのかは知らない。ただ、この家が人々と紡いだ歴史は終わっているらしいことは、そのひっそりとしたたたずまいと蔦紅葉からうかがえる。


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雲の峰 [季語を探す]




 家人が休日出勤するという。根を詰めているようで気がかりだ。せめても、と駅まで徒歩で10分もないわずかな道のり、愚息と二人で出勤する家人を見送りに行った。眩げに目を細める家人の口もとに笑みが浮かんでいたようにも思えたが、どうだろう。そうであればよいな。

 暑い。自転車で走っていても湯の中でもがいているように風に粘りがある。眩いのをこらえて空を見上げると、雲がむくむくと育っていた。

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 しばし足を止め、雲に見入る。
「きれいだね」
 と愚息が目を輝かせる。大きく育ち、雲は己の身にくろぐろと影を宿している。空の青、くっきりと縁どる雲の白に、その影の色が映える。空に高くそびえるさまは雄大でもあり、水気を思うさま蓄え、もこもことふくらむさまはどことなくユーモラスでもある。くっきりとしたエネルギッシュな色合いがきれいだ。

 積乱雲を、雲の峰というそうだ。夏の季語である。

生々と(いきいきと)切株にほふ雲の峰   橋本多佳子

 建物に切り抜かれた空にこんなにも鮮やかな雲の峰がある。残暑にしおれ、乾いた目を洗われるような心地がした。幼い頃、急坂を一気に駆けのぼるその勢いが止まらず、雲の峰に突進しているような気持ちになったことがある。切れる息、遠くで揺らめく逃げ水、厳しい日差し、濃厚に漂う草いきれやまだ遠い雨の気配。時も場所も違うのに、夏の鮮やかな確かさは変わらない。

 朝、少し遅めの時刻。ぬったりと気温が上がり続けているからだろうか、住宅地なのに人の気配は感じられない。倦んだ静けさの中、私からデジカメを受け取った愚息が「モノクロもいい感じ」と雲の峰を撮った。

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 同じ雲の峰を見上げて、美しいと語り合っても、それぞれの目がぴたりと同じものを映しているとは限らない。それでも、私は愚息のまっすぐな幼いまなざしに慰められる。家人も電車から同じ空を見ているといいな。そう思った。


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豆飯 [季語を探す]




 先日、グリーンピースが手ごろなお値段で手に入ったので、豆飯を炊いた。

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 グリーンピースは蚕豆に比べるとぐっと過保護感が減る。さやをむいたときのみっちりぎっしり詰まった様子、その充実感やよし。豆つぶのころりと丸い、むっちりとしたさまには、蚕豆と趣の異なる愛らしさがある。にんまりしながら作業していたら、私の手つきに滞りがあったか、家人がさやむきを手伝ってくれた。さすが拙宅の隠れ台所番長。グリーンピースのさやをむかせても手早い。
 いつもなら炊いた米がふきあがったところでグリーンピースを放り込んで作るが、今回は別にゆでておいて、炊きあがったご飯を蒸らすときに投入。強すぎる甘みや色の濃い出汁はグリーンピースの爽やかな緑色と甘みを損なう。ご飯は昆布、酒、塩の出汁で炊く。

 豆飯は初夏の季語だ。この場合の豆は小豆などではなく、グリーンピース、つまり豌豆だ。ご飯の白、豌豆の緑の対照が美しく、緑の濃くなりはじめる時季にふさわしい。豌豆のほのかな甘みとご飯に炊きこんだ昆布の風味と塩味が口中で淡くやわらかい味わいとなり、美味である。
 講談社版『カラー図説日本大歳時記座右版』にも、爽やかな色合いと味わいに季節を感じさせることから豆飯をご馳走とみなす句が多く載っている。

豆飯や娘夫婦を客として   安住敦

 ほほえましい。別に暮らす娘とそのつれあいの訪れをわくわくと心待ちにしながら豌豆のさやをむき、「特別な用意はないんだけど」という態を装っていながら、いそいそとご馳走をふるまう親の楽しげな様子がうかがえる。

 豌豆に限らず、豆というものは特有のほくほくした甘みがぽそぽそと粉っぽく感じられるのか、好みが分かれるようだ。

お替りをする子せぬ子や豆の飯   池上不二子

 私は母の作る豆飯が大好きで、弁当に入れてくれとねだったこともあるくらいなのだが、愚息は豌豆を「シューマイに乗っている邪魔くさいもの」程度に考えているようで、豆飯を好まない。今回も箸が進まなかった。
 黒っぽい器に盛るとさらに美しさが際立つのだが、と写真を撮ってから気がついた。次回は塗りのどんぶりによそい、家族の目を楽しませることにしよう。


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